2010年01月25日

福山雅治の龍馬伝見てる?

白虎隊を知るには幕末という時代を知っておく必要がある。
龍馬伝を見ている人なら分ると思うけど・・・
黒船がやってきてからの日本は大きく揺らいでいた。
徳川幕府の存在そのものが「必要なの?」と思う人が増えて、
幕府もそれを感じていたんだね。
苦肉の策として幕府は 「 公武合体(こうぶがったい) 」 を進める。
「公武」の「公」とは天皇。「武」とは武士(徳川)の事。
徳川家と天皇家が一緒になろうとした訳。
この時の天皇は孝明(こうめい)天皇なんだけど、
この孝明天皇の妹 「 和宮(かずのみや) 」が
徳川14代将軍 家茂(いえもち)のお嫁さんになる事が決まった。
無理やりのお嫁入りだった。
「 天皇と幕府が一緒になって政治をやりましょう 」 という考え方。
たかが結婚と思うかも知れないけど、
天皇家が武士と結婚するなんて これまで徳川幕府が始まって以来、
初めての出来事なんだよ。
勿論、反対する人も多く居た。
「 徳川幕府は、政治を行う権利を天皇に返えすべきだ! 」
「 これからは天皇が中心に立って政治を行うべきだ! 」
という考え方があった。
それを 「 王政復古(おうせいふっこ) 」 というの・・・
王様(てんのう)の政治を復活させるって事。

この2つの考え方で日本は乱れ、京都では天皇に近づく為に
薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)土佐藩(高知県)の武士が集結していた。
そこに京都守護職として会津藩が呼ばれて来た訳。
おそらくイヤイヤね。
会津藩は、この 「 公武合体 」を進めていた側(徳川幕府と孝明天皇)に付いていた訳だね。
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2010年01月11日

白虎隊の殿様 その2

白虎隊の殿様 会津藩主 松平容保(かたもり)の話しの続き・・・・
文久2年(1862) 閏8月に松平容保は「京都守護職」に任ぜられる。
読める?「きょうと しゅごしょく」だよ。

どんな仕事かは文字を見れば分ると思うけど・・・
京都を守る警察官の一番偉い人って感じかな?
どうして 容保 が選ばれたかと言うと、表向きには 「 天皇からの信頼も厚く、
会津藩が武士軍団として優秀で、容保自身が指揮官として優れていたから。」
なんだけど、本当の理由は・・・・
詳しく書けばきりが無いけど 「 会津藩の立場を悪くする為、
わざと難しい仕事をさせて失敗させるため 」 って言えば分り易いかな?
そんな事情もあった。

そして、その事は松平容保も気付いていた。引き受けたら大変な事になると・・・
実際には何度か断ったんだけど、結局 断わり切れなかったんだね。
何故なら、この職は 徳川幕府 からの命令 だから・・・
前にも書きましたが会津には 「 家訓 」 があります。
その家訓には「 幕府に従わない者は子孫でない 」 と書いてあったからです。
特に、容保は元々 養子として迎えられた藩主だったので、
先祖代々守られてきた 「 家訓 」 に
養子である自分の代で逆らう事は出来なかったのです。

徳川幕府は徳川家康から始まって15代 慶喜(よしのぶ)まで続きますが、
当時 文久年間(1861-1864) は14代 家茂(いえもち)の時代でした。
徳川幕府は長い間 「 鎖国 」 をしていて外国との交流を禁じていたのですが
「 黒船 」(外国船)が訪れるようになり 「 開国 」 を迫られ、
また幕府の政治に不満を抱いていた人達も
幕府を潰したいと考える様になっていました。
「 外国と交流をする事はいい事なんだ 」 「 日本は遅れている 」 という人や
「 このまま鎖国をしていたら外国と戦争になる 」 という不安を
抱く人が増えていました。
しかし、徳川幕府を潰す為には、徳川幕府よりも強い人
或は偉い人の力が必要でした。
そこで日本を変えたいと思っている人達は「天皇」に日本を変える様に説得します。
しかし、天皇はこれまで徳川幕府に政治を任せていたので何も出来ません。

そんな時代です。
とにかく日本は とても乱れていたのです。
そして天皇のいる京都は特に乱れていました。
その乱れた京都を安全にしなさい。と命令されてしまったのが
会津藩主 松平容保 なのです。
時代は 「 天皇 VS 幕府 」となろうとしていて、
その舞台が 京都 であるのに・・・・・。
天皇にも幕府にも逆らう事の出来ない会津藩には、とても難しい仕事だったのです。



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2010年01月04日

白虎隊の殿様

会津藩主 松平容保(かたもり)は9代続いた会津藩、松平氏の 最後の殿様です。
今日は、この 9代藩主 松平容保(かたもり)について少し触れてみます。
松平 」 とは 「 徳川 」 の元の名前で、徳川家の親戚 だと考えれば分り易いね。

松平容保(かたもり)は
美濃国(岐阜県)高須城の藩主 松平義建(よしたつ)の
(6番目の)子供として天保6年(1835)に生まれます。
でも12歳の時、会津8代藩 松平容敬(かたたか)の養子となります。
容敬には子供が出来なかったからです。
そして嘉永5年(1852) 容敬が亡くなり、容保が 9代藩主 となりました。

前回 初代会津藩主 保名正之(ほしな まさゆき) の話しを書きましたが
覚えてますか?
彼が徳川2代将軍 秀忠の子供だと書きましたが・・・
つまりは3代将軍 家光の腹違いの弟です。

3代将軍 家光は、この弟に深い信頼を寄せていたそうで
病床で無くなる間際に正之を呼び寄せ、
この 徳川家 を頼む 」 と言って亡くなったそうです。

正之が会津藩主になった時 「 家訓 」 を作った話しも前回書きましたが、
それは、たとえ遠く会津にいても家光の遺言に応えたいという思いが
あったからだと思います。
「 家訓 」 を現在の言葉に直して書くとするならば

「我 子孫は 皇室 を敬い、将軍 に対して忠勤を励みなさい。
 他の大名と同じ様に考えてはいけません。
 もしも、叛くような者がいた場合には、我 子孫では無いと見なし、
 家来たちは、その様な者に従う必要は無い。」

って感じの 「 家訓 」 だったのです。
会津藩の藩主は全てこの 「 家訓 」 に従って来ました。
それが会津藩の姿勢です。

9代藩主 松平容保も同じでした。
会津藩は武士の教育に特に力を入れていました。
武士の子供には 「 (じゅう) 」 と呼ばれる 遊びのグループがあり
その中でも厳しい「心構え」を教えられました。
子供の頃から「武士のあるべき姿」を徹底的に学び育つのです。

また会津の軍勢は長沼流の軍学を取り入れ
「 軍勢の指揮は 藩主自ら が執る。」と言うものでした。
容保は決断力を持ち、命令が的確な人物で有能な指揮官として知られています。
また、その姿勢は 孝明天皇 からも厚い信頼を寄せられていました。

そして文久2年(1862) 京都の治安維持の為の新しい職務
京都守護職 」 に任じられてしまうのです。
この事が、会津の運命を大きく変えてしまいます。

次回は この 「 京都守護職 」について書きたいと思います。



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